ほんとく日記

生為鍼灸、死為鍼灸

陸痩燕先生

 

以下『陸痩燕 金鍼実験録』  陸痩燕著 人民軍医出版社

より先生の紹介を抜粋します。(敬称略)

『鍼灸臨床家叢書』の主編は中国鍼灸学会副会長・山東中医薬大学副校長の高樹中先生です。

1909年12月14日上海市嘉定県の鍼灸医師の家庭に生まれる。父である李培卿の医術は驚異的で「神鍼」と称されていた。六男二女のうち末っ子は陸門へ出て、陸昌と名乗り痩燕と更に改名した。幼い頃から父の神効を目の当たりにし、中学卒業後医学を志す。1927年18歳から医業を開始し上海神州医学会へ参加する。朱汝功と結婚後、上海八仙橋で各々開院し、彼らの医術・医德は日々高まり、日に数百の患者が押し寄せ、医院には弟子入りを求める張り紙が溢れる。1948年「新中国鍼灸学研究社」を設立し、「痩燕式」金・銀毫鍼及び各種ステンレス毫鍼、鍼灸経絡穴位模型を創る。新中国成立後、中医政策の発展に随い、彼らも慣習であった衣服越しの刺鍼を改め、体表治療部位を消毒後刺鍼するようにし、鍼具も煮沸・アルコール消毒後するようにした。これは当時鍼灸臨床における一大改革かつ進歩であった。鍼体の細い毫鍼も持ちいて患者の刺鍼痛を軽減させ、正気を傷つけないようにした。そして父から受け継いだ経験に自己の臨床経験を組み合わせ、「温鍼」「伏鍼」「伏灸」を陸痩燕鍼灸流派の特色の一つとした。50年代は上海市鍼灸学会主任委員及び上海市中医学会副主任委員を務める。夏季には「伏鍼」を求めて患者が列をなしたため、午前400名と限定し、午前6時から治療を開始して、30名ずつ先ず、切脈・問診・処方配穴し、カルテを書いた後に、学生に治療ベッドへ案内させ、体表穴位を消毒して、カルテ上の処方に基づき刺鍼を行い、装艾・点火・起鍼・抜罐等は学生がするという一連の流れを午後1時まで行う。その後朱汝功が2時から200名以上を6時まで行うというものだった。彼女は更に往診も行った。1958年収入的にも恵まれた個人開院を辞め、上海中医学院の招聘により鍼灸教研室主任を担任する。同年夏、第一回全国鍼灸経絡学術会議にて焼山火・透天涼鍼刺補瀉手法を披露した。1959年には衛生部から委任され新中国成立後初めての中国医学代表団員としてソ連へ赴き講演・治療・学術交流を行う。1960年全区に初の鍼灸学部が上海中医学院に成立し主任に任命され、同時に上海中医学院附属龍華医院鍼灸科主任・上海市鍼灸研究所所長となる。著作に『経絡学図説』『腧穴学概論』『刺灸法匯論』等。60年代は焼山火・透天涼の体温・血糖・血漿クエン酸含有量の変化を通じて、主観的な感覚変化だけでなく実際に発生する生理過程と物質基礎を研究した。上海市鍼灸研究所所長時代は社会・学術・行政活動が多忙を極めたが週3回の外来は堅持した。局所・遠端配穴原則に基づく導気・補瀉鍼刺手法によって両目の失明から再び光明を得た患者もいた。1966年57歳で「反動学術権威」のレッテルを貼られ、監督労働の一環としてトイレ掃除等をさせられる。1969年4月17日、隔離され審査を受け、10日後の27日、上海市鍼灸研究所隔離室にて迫害され非業の死を遂げる。名誉が回復し公正な評価がなされたのは死後10年後であった。

本当に早すぎる、惜しまれる存在です。

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