ほんとく日記

不動心

馬継興先生

1924年山東省済南生まれ。回族。著名医史文献学家。

郭靄春先生といい、現在のようにPCのない時代から文献を研究されている先生方の地頭には脱帽です。

散逸した古医籍や海外の善本を祖国に回帰させるという大事を為されている大先生です。その数は155種に及びます。

 

以下『中華中医崑崙』第十二集 当代中医薬発展研究中心編 中国中医薬出版社

より先生の紹介を抜粋します。(敬称略)

 

1941~1945華北医学院に在籍し、卒業後済南にて医療従事。ほどなくして北京大学医学院にて教員となる。1949年より衛生部直属北京中医進修学校教員・教授、北京市鍼灸研究所教授、匯通中医学校教授及び北京師範大学生物系講師を務める。1954年10月より中医研究院に在院し、1955年に正式に成立後は鍼灸研究所中医師・学術秘書・医史文献研究所副研究員・院専家委員会委員・学位評定委員会委員・専家諮問委員会委員を務める。著書は20部以上、発表論文は150以上に及ぶ。

中学は済南教育史上最も歴史のある男子校である正誼中学へ。卒業後16歳で単身北平に求学し、北京四代名医である施今墨の創建した華北国医学院へ入学する。山東省費県の名医左済拯が親戚だったため、彼の医院のカルテ整理や、収蔵する中医古籍を読む環境にあった。ここで7:3の東西医学から日本語・武術までを学ぶ。実習では内科は施今墨の個人病院、鍼灸は焦会元・夏禹臣両氏に学ぶ。卒業後、1947年1月より『中国鍼灸学』の編集委員を務める。1950年在院していた北京大学医学院から衛生部の創設した北京中医進修学校に招聘され、出身者には劉渡舟・路志正・閻潤茗等がいる。1951年4月21日に北京中医学会鍼灸委員会が正式に成立し、総幹事兼主任委員となる。1955年12月に広安門内の北線閣胡同に中医研究員が成立し、学術秘書を務める(鍼灸研究所には鄭毓林・鄭魁山・葉心清等)。1957年人生と事業における青天の霹靂ともいえる不公正な待遇に見舞われる。石景山鉄工所と衛生部の居庸関緑化大隊にて労働を強いられ、後に北京史順義県農村医療隊として巡回医療に参加する。1963年10月に中医研究院文献資料研究室に配属される。70年代に江西省永修県の農村に下放されるも、苦境の中でもこの土地の豊富な中草薬から因地制宜的に研究を始める。1972年甘粛省武威市の「武威漢代医簡」発見から、中医に関する出土文物の文献研究は生涯のライフワークとなる。1994年10月中国中医薬学会文献分会が成立し、初代主任委員となる。1981年には中米科学技術協力項目によりアメリカ国家医学図書館からの要請により半年間滞在し、所蔵されている中医古籍版本を鑑定・考証する。1984年には北里研究所附属東洋医学総合研究所所長の矢数道明と北京にて学術交流を行い、9月には日本医史学会の招聘により学術会議にて報告、1986年7月には同研究所客座研究員となる。1992年3月には第一回日本鍼灸臨床文献学会にて学術報告を行う。1993年には中国中医薬出版社から『鍼灸銅人と銅人穴法』を出版する。1997年3月には顧問として関わった「日本に現存する中国で散逸した古医籍の研究と整理」課題が国家中医薬管理局重点課題として認定される。指導した院生には鄭金生・高文柱・潘桂娟がいる。2003年9月には中華中医薬学会が「中華中医薬学会終身理事」の証書を与え、2008年1月には中国中医科学院から「中国中医科学院栄誉首席研究員」の称号を与えられる。

数えきれないほどの古籍を読み、読書が唯一の嗜好であり、書中に人生最大の快楽を得、逆境においても本は信頼に値する友である。人間は極めて簡素で、資料の収集にあたっては廃棄する紙で作った自作のカードを用いる習慣を数十年来続けている。絶えず新たな内容を補充したいために出版に至っていない書稿が多々ある。風雨に係らず83歳まで自転車で出勤し、行き過ぎた欲望を持たず、他人がどうかを気にせず、自分のやることをする。他人には他人の幸福があり、自分にないからといって追い求めたりしない。学問・身体は自分のためにあり、頭を働かせ体を動かすことが養生の秘訣である。      (撰稿人 張瑞賢)

 

动脑动体不动心,

不计得失乐津津。

适量动脑反受益,

动心贪欲必招损。

定时适量来动体,

学习工作要认真。

但求失志勤奋进,

屏绝俗欲得天真。

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